敷金償却の特約(敷引特約)は有効?最高裁判例を踏まえて解説
自宅用やオフィス用にマンションやビルの居室を借りる際には、賃貸人に対して「敷金」を差し入れるのが一般的です。
「礼金」などとは異なり、敷金は退去時に返ってくるのが本来の取扱いです。
しかし、賃貸借契約の内容によっては、敷金の一部を返還しない「敷金償却の特約(敷引特約)」が定められているケースもあります。
敷金償却の特約(敷引特約)は、賃借人にとって一方的に不利な内容のようですが、このような特約は有効なのでしょうか?
今回は、敷金償却の特約(敷引特約)の有効性について、最高裁判例を踏まえて解説します。
1.敷金とは?
敷金とは、賃貸借契約に基づく賃借人の債務を担保するため、賃借人から賃貸人に交付される金銭を意味します(民法622条の2)。
不動産賃貸借契約では、賃借人側の行為に起因して、様々なトラブルが生じるリスクがあります。
たとえば、以下のようなトラブルが想定されます。
- 賃料の滞納が発生した
- 賃借人が居室(または備品)を壊してしまった
- 賃借人が共用部分に物を放置し、賃貸人が撤去費用を支出した
- 賃借人の行動によって、周辺住民からのクレームが発生し、賃貸人が対応のコストを負担した など
賃貸人としては、このようなトラブルが発生した場合、賃借人に対して賠償・補償を請求できます。
しかし、賃借人がすんなり支払ってくれるとは限りません。
そこで、もし賃貸人と賃借人の間で何らかのトラブルが発生した場合に、円滑な債権回収を図るため、賃貸人が賃借人に敷金の預託を求めることが多いです。
敷金が預託されていれば、万が一賃貸借トラブルが発生した際にも、賃貸人は敷金から差し引くことにより、賃借人に対する債権を回収できます。
2.敷金償却の特約(敷引特約)とは?
契約時に賃貸人に対して預託した敷金は、契約中に何もなければ、賃貸物件からの退去時に、賃借人に対して返還されるのが原則です。
しかし、敷金償却の特約(敷引特約)がある場合には、敷金の一部が返ってこない可能性があります。
(1) 敷金の一部を返還しない旨の合意
「敷金償却の特約(敷引特約)」とは、賃貸借契約の終了時に、敷金の一部を控除したうえで返還する旨の合意を意味します。
言い換えれば、「敷金の一部を返さない」という合意のことです。
前述のとおり、敷金は本来、賃貸借契約から生じる賃借人の債務を担保するためのものです。
そのため、賃料滞納や損害賠償などで差し引く金額がなければ、賃貸人から賃借人に対して、退去時に敷金全額が返還されるのが原則となります。
しかし、敷金償却の特約(敷引特約)がある場合には、契約中に賃料滞納や損害賠償が発生したか否かにかかわらず、退去時に返還される敷金からは、必ず一定額が控除されてしまうのです。
(2) 敷金償却と原状回復費用の違い
敷金償却を行うことには、賃借人に「原状回復費用」を負担させる意味もあります。
しかし、賃借人の原状回復義務の範囲(金額)と、敷金償却の金額は、必ずしも一致するものではありません。
賃貸物件を賃借人が使用している間に発生する劣化等には、大きく分けて以下の2種類があります。
①経年変化・通常損耗
「経年変化」とは、年数の経過によって、当然に生じる建物の変化を意味します。
「通常損耗」とは、賃借人が建物を使用するに当たって、自然に生じる損耗を意味します。
<経年変化・通常損耗の例>
・フローリングのワックス跡
・家具設置による床やカーペットのへこみ
・日照などによる畳、フローリング、クロスの変色
・テレビ、冷蔵庫等の後部壁面の電気ヤケ
・壁にポスターや絵画を貼っていた場所の跡
・画鋲穴、ビン穴
・エアコン設置箇所の壁のビス穴
・網戸の汚れ
・水回りに固着した汚れ など
②賃借人の帰責性による損耗等
賃借人の用法違反や過失行為によって、建物に生じた損耗等です。
<賃借人の帰責性による損耗等の例>
・引っ越し作業によって発生した床や壁面の傷
・落書き
・賃借人の不注意による畳、フローリング、クロスの変色
・タバコのヤニや臭い
・ペットが付けた柱の傷や臭い
・くぎ穴、ねじ穴
・天井に直接取り付けた照明器具の跡
・クーラーの水漏れによる壁の腐食 など
賃借人が原状回復義務を負うのは、原則として、②の賃借人の帰責性による損耗等のみです。
これに対して、①の経年変化・通常損耗については、賃借人の原状回復義務の対象ではなく、賃貸人の費用で修繕すべきものとなります。
ただし、賃貸借契約において特約を規定すれば、経年変化・通常損耗についても、賃借人負担とすることが認められる場合があります。
前述のとおり、敷金償却の特約(敷引特約)には、上記の原状回復義務を賃貸人に負担させる趣旨が含まれています。
しかし、敷金償却の実施によって、どの範囲の原状回復義務が果たされたことになるのかは、契約によって異なるので注意が必要です。
たとえば敷金償却が、原状回復義務とは全く無関係に行われるという整理になっている契約も存在します。
この場合、賃借人の帰責性による損耗等については、賃貸人から別途原状回復費用を請求される可能性もあるのです。
このように、敷金償却と原状回復費用は別物であり、賃貸借契約の内容によって関係性が異なります。
特に、敷金償却と原状回復費用の請求が重ねて発生することがないかについては、賃貸借契約締結時に注意深く確認しましょう。
3.敷金償却の特約(敷引特約)は有効?
敷金償却の特約(敷引特約)は、消費者契約法との関係で、その有効性が問題になるケースがあります。
どのような基準によって、敷金償却の特約(敷引特約)の有効性が判断されるのかを確認しておきましょう。
(1) 消費者契約法上との関係で有効性が問題となる
消費者契約法10条に基づき、消費者の義務を加重する消費者契約の条項であって、信義則に反して消費者の利益を一方的に害するものは無効となります。
消費者契約法10条(消費者の利益を一方的に害する条項の無効)
第十条 消費者の不作為をもって当該消費者が新たな消費者契約の申込み又はその承諾の意思表示をしたものとみなす条項その他の法令中の公の秩序に関しない規定の適用による場合に比して消費者の権利を制限し又は消費者の義務を加重する消費者契約の条項であって、民法第一条第二項に規定する基本原則に反して消費者の利益を一方的に害するものは、無効とする。
敷金償却の特約(敷引特約)は、当事者間で特段の合意がない限り、通常損耗等の補修費用を賃借人に負担させる趣旨を含むものと解されます(最高裁平成23年3月24日判決)。
通常損耗等の補修費用は、民法の原則上、賃借人が負担すべきものではありません。
したがって、敷金償却の特約(敷引特約)は、消費者の義務を加重する契約条項に当たります。
よって、「信義則に反して消費者の利益を一方的に害する」ものと評価される場合には、敷金償却の特約(敷引特約)は無効となるのです。
(2) 敷金償却の特約(敷引特約)は原則有効
最高裁の判例は、敷金償却の特約(敷引特約)は原則有効であるというスタンスを取っています(最高裁平成23年3月24日判決)。
敷金償却の特約(敷引特約)が有効となることの根拠として、最高裁は以下の理由を挙げています。
- 賃貸借契約に敷引特約が付され、賃借人が負担する敷引金の額が契約書によって明確に合意されていること
- 敷金償却が合意されている場合には、賃料には通常損耗等の補修費用が含まれないものと合意されているとみるのが相当であり、賃借人が通常損耗等の補修費用を二重に負担するわけではないこと
- 通常損耗等の補修費用に充てるため、賃貸人が賃借人から支払いを受ける金銭を具体的な一定額とすることは、紛争防止の観点からあながち不合理とは言えないこと
したがって、賃貸借契約に敷金償却の特約(敷引特約)が規定されている場合には、その内容に従って敷金の精算が行われるのが原則です。
(3) 高額すぎる敷金償却の特約(敷引特約)は無効
ただし同最高裁判決は、以下の2点の理由を挙げたうえで、敷引金の額が高額に過ぎる場合には、賃貸人と賃借人の間の情報や交渉力の格差を背景に、賃借人が一方的に不利益な負担を余儀なくされているケースが多いと指摘しています。
- 賃借人は通常、通常損耗等の補修費用について十分な情報を有していないこと
- 賃借人が賃貸人との交渉によって、敷金償却の特約(敷引特約)を排除するのは困難であること
上記を踏まえて、最高裁は以下のとおり判示し、敷引金の額が高額に過ぎる場合には、敷金償却の特約(敷引特約)が無効になり得るとしました。
「消費者契約である居住用建物の賃貸借契約に付された敷引特約は、当該建物に生ずる通常損耗等の補修費用として通常想定される額、賃料の額、礼金等他の一時金の授受の有無及びその額等に照らし、敷引金の額が高額に過ぎると評価すべきものである場合には、当該賃料が近傍同種の建物の賃料相場に比して大幅に低額であるなど特段の事情のない限り、信義則に反して消費者である賃借人の利益を一方的に害するものであって、消費者契約法10条により無効となると解するのが相当である。」(最高裁平成23年3月24日判決)
4.敷金償却の特約(敷引特約)の有効性について示した裁判例
具体的に、敷引金の額がどの程度を超えてくると、敷金償却の特約(敷引特約)が無効となるのかについて、裁判例を参考に検討してみましょう。
【最高裁平成23年3月24日判決】
最高裁平成23年3月24日判決の事案では、月額賃料9万6,000円に対して、敷引金は契約期間に応じて、18万円から34万円とされていました。
この敷引金の額は、月額賃料の2倍弱から3.5倍強の水準です。
最高裁は、月額賃料の2倍弱から3.5倍強の敷引金を「高額に過ぎる」とは評価しませんでした。
さらに、賃借人が契約更新時の更新料以外に、礼金等の一時金を支払う義務を負っていないことも踏まえて、敷金償却の特約(敷引特約)を有効と判断しました。
【最高裁平成23年7月12日判決】
最高裁平成23年7月12日判決の事案では、月額賃料は当初17万5,000円、契約更新後は17万円であったのに対して、敷引金は60万円とされていました。
この敷引金の額は、月額賃料の3.5倍程度の水準です。
最高裁は、月額賃料の3.5倍程度の敷引金を「高額に過ぎる」とは評価しませんでした。
さらに、敷引金の額が、近傍同種の建物の相場に比べて大幅に高額というわけではない点も指摘したうえで、敷金償却の特約(敷引特約)を有効と判断しました。
【西宮簡裁平成23年8月2日判決】
西宮簡裁平成23年8月2日判決の事案では、月額賃料9万3,000円に対して、敷引金は40万円とされていました。
この敷引金の額は、月額賃料の4.3倍程度の水準です。
西宮簡裁は、敷引金が月額賃料の約4.3倍であることに加えて、敷引率(預託した敷金額に対する敷引金の額の割合)が80%と高率である点を指摘し、敷引金が「高額に過ぎる」と評価しました。
そのうえで、月額賃料の3か月分相当額に限って敷金償却の特約(敷引特約)の有効性を認め、それを超える部分については無効と判断しました。
【神戸地裁平成24年8月22日判決】
神戸地裁平成24年8月22日判決の事案では、月額賃料8万円に対して、敷引金は50万円でした。この敷引金の額は、月額賃料の6.25倍の水準です。
神戸地裁は、賃貸借期間が2年半余りの短期間であることを指摘したうえで、月額賃料の6.25倍の敷引金を「高額に過ぎる」と評価しました。
そのうえで、敷金償却の特約(敷引特約)全体が、消費者契約法10条に基づいて無効になると判断しました。
上記の4つの裁判例の傾向を見ると、敷金償却の特約(敷引特約)の有効性が認められるためには、敷引金の額が、月額賃料の3~3.5倍程度までに抑えられていることが目安となるようです。
敷引金の額が上記の水準を超えた場合、敷金償却の特約(敷引特約)が全体として無効となるか、それとも一定額を超える部分のみが無効となるかは、事案によって判断が分かれています。
なお、上記の基準はあくまでも目安です。
実際には、賃借人の負担などを総合的に考慮して、敷引金の上限水準がケースバイケースで判断されることにご留意ください。
5.敷金償却の特約(敷引特約)については、事前に契約書の確認を
賃貸借契約に規定された敷金償却の特約(敷引特約)を見逃していると、「敷金を返してもらえると思ったのに、ほとんど返ってこなかった」という事態になりかねません。
敷金償却の特約(敷引特約)を含めて、不動産に関する予想外の契約トラブルを回避するためには、締結前に必ず契約内容を確認しましょう。